深爪の快感 不快感
2014.07.17俯瞰するように、ものごとを大きな視点で捉えることが苦手であることや、大きな事柄や出来事を噛み砕いて
理解する能力が(ほぼ)ないことに気が付いてから、自動的に視線は身近なところへ向くようになりました。
慣れ親しんだ普通の毎日の中にも、ときどき、初めて出会うような感覚や感情があるのです。
最近出会ったそのひとつが、「深爪の感覚」。
わたしは、手の爪を少々短く切りすぎたときの指先の感覚が、とても不思議で好きになりました。
(きっと、いつも深爪状態の人には分からない感覚かもしれません。)
爪が少し伸びていると、爪と皮膚の間の際(きわ)には1〜2ミリ程、ものに触れられない隙間が存在します。
その「スポット」にも、もちろんちゃんと感覚が通っているのに、感覚する(物に触れる)チャンスが
他の領域の皮膚よりも圧倒的に少ないので、皮膚感覚の感度がまったく違うように感じます。
虫眼鏡と顕微鏡くらいの差。
だから、そこに何かが触れると、まるでその対象物がどれほど触れ馴染んだものであっても、
まるで初めて触ったような感触を得るのです。もう、「変な感じ」としか言えないような、変な感覚。
「目」と「手」のズレ、とも言えるかもしれませんが。
深爪は、少々の後悔(痛いし)はあるものの、新鮮な感覚を味わうことができるとても簡単な方法なので、
たまにやってみることを、おすすめします。
こんなふうに(くだらなくとも)、自分の手もとから何かを発見するのは面白いものです。
だけど、結局は、その手もとや足もとを見る視力を鍛えることで、今まで持つことのできなかった大きな視点を得る、
ということを今後の制作を通してしていきたいのだなと、この頃ぼんやりと思いはじめています。
語源の(誤)発見
水が張られた田んぼを、ぼーっと眺めていたときのこと。
水面にぽつぽつと広がる小さな波紋を見つけて、咄嗟に「あ、雨だ。」と思いました。
だけど空を見ても、雲はあるけどまぁそれなりに良い天気で、
あれおかしいな、と思いつつもう一度田んぼに目をやるも、やっぱりたくさんの波紋が。
これはいよいよ、妙に変だなーと近寄ってよーく見ると、アメンボがちょこちょこと動き回っているのでした。
なーんだ、アメンボだったのか。
と思ったその時。
わたし、気付いてしまったのです。
「アメンボ」の語源。
ははーん、そうだったのね。
アメンボは「まるで田んぼに雨が降ってきたかのように勘違いさせる、いたずらっ子」なので「アメンボ(雨ん坊)」なのか!
昔から水田の国である日本ならではの現象と視点が、その名前に見事に表れているようで、それを発見してしまった自分に、
また、それを今まさに自分が体験してしまったという事実に、恍惚とし、また府に落ちるような感覚を味わいました。
そりゃあもう、嬉しかった。
もちろん、家族や友人に自慢もしました(みんな、それなりに驚いてくれました)。
だけど、いつだって現実は残酷です。
アメンボの「アメ」は「雨」じゃなくて「飴」だって。
実はアメンボ、体の中央にある臭線から飴のような甘いにおいを発するために「飴ん坊(飴の坊)」と名づけられたとのこと。
しかも、Amenboa(ラテン語)は、アメンボの仲間全体を表す学名で、昔からの日本での呼び名が世界共通になっているようです。
古の人と同じ体験をすることで語源を発見するだなんて、ロマンだなー、なんて思っていたもんですから、ショックでした。
事実を知ってもなお、正直、わたしの(ねつ造した)語源の方がずっと的を得ている気がしてならないのですが、
あのすばしこっいアメンボを捕まえて、なおかつ匂いを嗅ぎ「飴の匂いだ!」と発見した最初の人だけには、賛辞を贈りたいと思います。
圧倒的な肯定力 − 春のアハ体験 −
画像の一部が徐々に変化していく「アハムービー」と呼ばれるものを見ても、
わたしはだいたいいつも変化に気が付くことができず、めったにアハ体験ができません。
残念なことです。
ですが、毎日見ているのにも関わらず、「起こる変化」にちゃんと気付かせてくれる春の変化のスピード感に、
今年は正直、驚かされっぱなしでした。(これを書いてる今はもう夏ですが。)
世の中に緑色の占める割合(体積)が、自分の想像をはるかに超えるスピードで増えていくあの感じは、
本当にあっぱれです。すごい。
春の、すべてを無条件に肯定してしまうような圧倒的な勢いのある力。
ものごとに(割と)否定的かつ反抗的な私は、完全に(ほぼ毎日)面食らっていました。
そして春の野菜や野草。
旬である、ということがどれだけ尊いのかを感じます。
しかし、毎年春になると顔中にできるブツブツが、春の旬の食べ物のせいであることが判明したのも、この春でした。
灰汁。
何が言いたいかというと、春は「うららか」とか「おだやか」とか、そんな生易しいものじゃなくて、
実は相当に、エネルギッシュでアグレッシブな季節なんじゃないか、いうこと。
世の中にたとえ桜がなくても、春はのどかじゃないと思うのです。
そのエネルギーを目で、また顔中のブツブツで、全身で堪能した今年の春でした。
春、かなり好きになりました。
不思議な効力
締め切りというのは正直あまり好きではありませんが、かなりの効力があります。
制作への集中力や感度を高め、疲れや眠気のような疲労感などには鈍感になる、不思議な力です。
作品が完成するまでには、いろんな段階があります。
ラフな案までは、それはもう自由で、そもそも現実的に無理、とか、いったいどうやって作るのか、
とか技術的なことは、ほとんど考えません。
ですが、いったん制作を始めると素材的な限界や技術的な問題、また、完成に向かうにつれ耐久性や構造上の問題、
はたまた展示となると引力や重力などといった問題にぶち当たりまくるわけです。現実という名の大きな壁です。
それを越えるのに、締め切りというものがもたらす、良い効力が役に立ちます。
締め切りがないと作れないのでは本末転倒ですが、妙に感覚が研ぎすまされるような、
純度の高い意識でいられる時間というのが作品を作る上でとても大切なように感じます。
情けないことに、わたしの場合、その状態になる一番手っ取り早く簡単な方法が、「締め切りがある」ということなのです。
自分でコントロールできるようになりたいものです。
個人的な興奮
いつも暮らす地味な日常の中にも、あっと驚いたり、はっと気付かされたり、ぐっとくるようなことがあります。
そんなことが作品をつくるスタート地点になっているのですが、自分がつくった作品からもそういう体験をすることもあります。
これは密かに、ですが、かなり、興奮します。
なので、作品を展示したら、同じ空間に自分の身を置き、よくみて、感じる、ということは本当に大切な、有意義な行為だと思います。
1年半くらい前に制作した「ふうー」という作品。(一応「息のかたち」というタイトルがついてます)
「自分の息」や「空気」が直接かたちをつくってしまう、つくられ方の面白さを作品にしたものですが、展示方法を考えているときに、
上向きに「ふうー」とやれば前向きな息抜き、下向きに「ふうー」とやれば、後ろ向きなため息にもなる、ということに気がつきます。
空気は「かたち」を持ってもなお、解釈においては、まるでかたちを持たないような自由さを残していることに驚きました。
実はここまでは制作後間もなく発見したのですが、また新たに、最近になって発見があったのです。
「ふうー」
「ふーう」
「うふー」
順番を入れ替えても成立してしまう、ということ。
(「なーんだ、くだらない」とか思ったらだめです。くだらなくなんか、ありません、おそらく。)
ただ、最後の「うふー」はちょっとニュアンスが変わってしまいそうですが。
「日本語(文字)」と「空気」、そしてこの「作品」の3つがそれぞれに持つ可塑性が、不思議と一致していることに気がつき、
なんとも言えない、(きわめて個人的な)興奮を味わいました。何というか、腑に落ちるような感覚です。
ですが実はこれ、はじめに見つけたのはわたしではないのです。
気付けない自分に落胆するのと当時に、とても良い気づきを与えてもらい嬉しく思っています。
ふつうのマリオ
昨年のSICF13にて、幸運にもグランプリをいただいてから、1年が経ちました。
この1年、スパイラルのみなさんをはじめ色々な方のお陰で、今まで経験したことのない様々なことに取り組むことができました。
わたしのような経験の少ない作家に大きなサポートをしてくださったことに、感謝の気持ちでいっぱいです。
これからの活動で少しでも返せるように、精進して行かなければと、本当に思います。
そして、SICF14と同時開催の受賞者展を終えた今、「1年経ったんだ」と改めて思います。
これまでは年度の変わり目、そして年末年始の年に2回が「1年」というサイクルを意識する機会だったのが、
これからはゴールデンウィークにも意識することになりそうです。
任天堂スーパーマリオブラザーズ世代のわたしは、この1年の自分を、まるで「スターを取った時のマリオみたい」だと、ずっと思っていました。
マリオがキラキラと輝き、音楽がハイテンポに変わり、時間制限はあるものの無敵になる、あの状態です。
(まわりから見たら、ぜんっぜん光輝いていたとは思いません。あくまでも超個人的に、です。悪しからず。)
小さい頃、マリオでスターを取ると無敵状態にも関わらず妙に浮き足立っては、溝などに落ちて無駄死にする
パターンが多かったわたしにとって、自分の実力から程遠い、この期間限定の勢いを最大限大切にしながらも
変に焦るのは気をつけようと、ある意味戒めにしていました。
でも結果的に、そんなに落ち着いても行動できず、「バタバタ」と「ギリギリ」で過ごして来ました。
そしてあっという間に1年が経ち「ふつうのマリオ」に戻ったわけです。(あ、これも個人的感想です。)
飛び道具がなくても、これからも着々と歩みを進めて行けるように制作に励みたい、と心から思います。
スパイラルペーパーのこと その2
表紙のアートワークの他にも、インタビューを掲載していただいています。
わたしが何気なく発した言葉も、文字になったとたんに一気に輪郭や重量、質感みたいなものが
与えられたように感じられるから不思議です。
書き言葉と話し言葉、そして、自分が話した言葉を聞き取った人が文字にした言葉。
普段あまり意識することない「言葉」というものを意識させられました。
インタビュアーは白坂ゆりさん。とても素敵な方でした。お陰で話したいことが次から次へと出て来てしまって困る程。
そして、わたしの説明が足りない部分を察し取り、補ってくれています。
また、インタビューページに「日常の気づき」ということで、生活の中で気になっているものやことも載せてもらっています。
これは、わたしの作品制作のきっかけが割と日常の視点にあることから、白坂さんが提案してくださったものです。
わたしは普段から気になったものがあれば、メモをしたり写真を撮っているのですが、いままでそれらをまとめたり、
あらたまって人に見せる機会などはありませんでした。
それで、説明しながら気付いたのが、「大喜利」のような感覚でものごとを捉えているということ。
日々出会うさまざまなものごとに対して、どのように解釈するのか。
自分にとって面白い解釈が生まれたときに、メモや写真を撮っているようです。
人に話す、という行為から自分自身を発見すること、
インタビュアーの方を介すからこそ生まれる文章(解釈)に出会えること、
そして、話し言葉と書き言葉の間の不思議な差を感じることも、インタビューの醍醐味なのかもしれません。
スパイラルペーパーのこと その1
スパイラルの広報誌である、スパイラルペーパー。
そのno.132の表紙のアートワークをやらせてもらいました。
息をかたちにした作品なので、「作品」と「人」を一緒に写して新しく「写真作品」が作れたらいいなぁ、
というわたしの漠然とした希望が、いろいろな方のアイデアと知恵と協力があって実現できました。
実現というか、よりパワーアップされて形になっていきました。
制作の過程で、作品が自分だけのものではなくなって行くような感覚を持ったのも、初めてのことでした。
この感じは口ではうまく言えませんが、まだ未熟者なわたしにとっては何か不思議な、特別な感じがしました。
世の中の作品すべてがそうあるべきとは思いませんが、少なくともわたしの作品においては、
作品が自分だけのものになっていては良い作品、とは言えないのだと思いました。
そして、制作の間で面白いなぁと思ったのは、ネアンデルタールのアートディレクター、石井原さんのアイデアでした。
わたしは、同じ「ふぅー」でも、人が上を向いて吹く前向きな息抜き的なものと、下の方を向いて後ろ向きなため息的なものと、
ひとつの作品で2パターン写真を撮ったら、面白いんじゃないか、と提案しました。
息や空気という、形を持たないものだからこその、解釈の自由さを見せられると思ったからです。
石井さんは、ふつうに「ふぅー」と吹いてる写真と、「ふぅー」って文字をバラバラに吹き飛ばして読めなくなった写真、
両方あったら面白いんじゃない?と。
なるほど!と思いました。
まずは吹いた息が形になり、次に、形になった息が吹き飛ばされることによって目に見えない新しい息の存在が写る。
それに「ページをめくる(と風が起こる)」という読む人の動作と呼応するような写真になるから、
とても面白いアイデアだと思いました。
そして、撮影は写真家の市橋織江さん。
市橋さんの写真を初めて見たときにとても印象的だったのが、「空気がそこにある」ことが写真から伝わってくる、ということでした。
透明感や空気感というと安易な表現ですが、市橋さんの写真を見ると「この中の空気吸えそう」とすら思ってしまい、
とてもびっくりしたのを覚えています。
そんな写真を撮る市橋さんに、自分の作品を撮ってもらえるのは、とても嬉しいことでした。
やっぱり合成ではつまらない。それは迷いなく一致したので、撮影は写真スタジオの屋上に実際にガラスを吊り下げて撮りました。
実際に「ふぅー」が空に浮かんでるところを見ると、素直に「似合う」と思いました。
事前の綿密な設置リハーサル、撮影当日も多くの方のサポート、そしてガラスを屋外で吊るという緊張感。
なのに吊るされているのは「ふぅー」というなんとも間抜けな文字。
とても楽しい経験でした。
作った作品で、また新たな作品(写真)を作る、ということの面白さや可能性と、その両方が存在する(させる)意味を
ちゃんと考える必要性、を感じるきっかけにもなりました。
とにかく、このような機会を与えてくれたことに感謝です。
こだわらないこだわり から こだわるこだわり
早口言葉みたいになってしまいました。3回言ったら絶対噛みそうです。
少し前のことになるのですが、spiralのチーフキュレーターの岡田勉さんが、わたしの作品、展示についての
レビューを書いてくださいました。そこで思ったことがあるので書いてみようと思います。
レビューは、「佐野はガラスのアーティストだ。」という書き出しで始まっていました。
きっと誰がどう考えても当たり前のことかもしれませんが、なぜかその言葉にハッとさせられました。
ガラス作家というのは、ガラスという素材を使って何かを作る人、だと思うのですが、
わたしはその「つくる」スタートラインをガラスという素材に置いてはいない(と思っている)し、
技法や技術を極めたい欲求のようなものもないので、「ガラスという素材に対してのこだわりは特に持っていません」
というある種、変なこだわりを持って制作していました。
きっと自分のまわりにガラスで制作をする人がたくさん居たから、あまのじゃく的な反抗心でそのように思っていたのかも知れません。
でも最近気がついたのは、どうやらこだわってしまっている、ということ。
こんなことに今さら気がついて、少し恥ずかしい気持ちです。
ここ最近は「空気のしわざ」のような、吹きガラスの技法を使った作品を制作していますが、
それまで、吹きガラスで「作品」を制作したことはありませんでした。
器をつくるための技法だと思っていたのです。それが最も自然だと。
吹きガラスは、ろくろと同じ。
遠心力や重力などをコントロールして形を作って行く、回転体。
しかも必ず吹き口(穴)ができるので、ただ吹いただけの状態で、すでに何かを入れる「容器」として成立しているのです。
そのような技法を使ってオブジェだの造形作品だのを作るのは、不自然というか、どこか無理をしているように感じていた訳です。
ですが、ある時、空気がパンパンに入った薄ーく吹かれただけのガラスが工房に転がっていたを見て、
「唯一、自分の息や空気が形をつくることのできる面白さ」が吹きガラスにあることに気がつきました。
それはそれは衝撃的な発見でした。知っていたはずなのに、気付けていなかったのです。
それから、わたしの中で「吹きガラス」はただ「器をつくる技法」ではなくなりました。
視点や認識の変換は、解釈を変化させ、新たな意味や価値を生みます。
すごくダイナミックな出来事です。
無理のあるような、不自然なことはしたくない、という気持ちは以前と変わりませんが、
まだ新しい世代の人間として、今までとは異なる視点で捉え、扱いたい。
扱う素材に対して、そんな意識が出てきています。
佐野さん
今日は制作とは関係ない話です。「佐野という名字について」という(どうでも良い)話です。
わたしの住んでいる地域には、佐野さんがたくさんいます。
ここでは、いわゆる佐藤さんや田中さんや鈴木さんよりも、ふつうな名字です。
もはや「佐野です。」と言っただけでは、アノニマスです。
実際に家の隣も佐野さん。わたしのアトリエの隣のお宅も、通りを隔てて向かい側にある会社も、佐野さん。
コンビニやスーパーの店員さんの名札を見ても、かなりの頻度で佐野さんに出会います。
若干恐ろしいですが、最近ではこの「佐野さん探し」を密かに楽しんでいます。
小学校や中学校の頃は、だいたいどのクラスにも佐野さんが2、3人は居て、「佐野さん!」と呼ばれても
「先生はいったい、どの佐野さんのことを呼んでるのかなー?」などと思って返事をすぐにしないほどでした。
昔は、この迷彩柄のような名字が、パッとしないので嫌でした。
今でも滑舌の悪さゆえ、電話などで名前を伝えると「ハノさんですか?」「カノウさんですか?」とか言われてしまいます。
カノウさんだったら「叶キョウコ」になっちゃいます。
あ、話がそれました。
しかしその後、大学進学を機に地元を離れると、佐野さんと出会う確率はぐっと減りました。
それはそれは、「唯一の佐野さん」になったようなとても不思議な感覚でした。
森や林の中から出れば、カモフラージュのための迷彩柄が「模様」になるのと同じ。単純なことでした。
面白い
「面白い」という言葉をよく口にしてしまいます。
それは、女の人が条件反射的に「かわいい」って言うのと近い感覚だと思います。
私にとって「面白い」というのはそのくらい最上の褒め言葉であり、また同時に便利な言葉でもあります。
この前知り合いの展示を見た後、「どうだった?」と聞かれて、咄嗟に「面白かった」と答えてしまいました。
そうしたら「その感想は初めて。」と意外そうに言われました。
きっと展示の内容的にも「綺麗だった」とか「カッコ良かった」とかが、適していたんだと思うけど、
それを全部ひっくるめたら「面白かった」ということになってしまった訳です。
口癖のように使い古したくはない「面白い」という言葉。
そんなことがきっかけで、「面白い」の守備範囲の広さが気になって来ました。
「面白い」って、面白可笑しくて笑ってしまうこと以外にも、ダイナミックさ、繊細さ、美しさ、醜さ、難しさ、バカバカしさなど、
自分の持っている尺度を越え、ハッとさせられるようなものすべてが「面白いもの」になれる気がします。
「凄み」を感じる、ということかもしれません。
最近読んだ本の中に、”「面白い」という言葉は、本当のことが分かって、目の前が開けて明るくなるという語源を持っています。”
と書いてありました。
目の前が開けて明るくなるような体験を、たくさんできるような1年にしたいです。
共感したい欲
「なんでつくるのか」という問いは、考えて行くと「なんで生きるのか」というところに行くので、なかなかの野暮な問いです。
理由は正直まだまだわからないし、わからないなりにも考えることをやめず、作り続けて行く他ないように感じています。
あー、なんとまあ地味で孤独。
ですが、今のところ「共感したいから」というのがつくる大きな理由のような気がしています。
とても単純で、しかも結構わがままな理由です。
でもきっと誰もが持っているであろう、欲求にも近いものだと思います。
例えば、
そうとは知らず、割った卵から2つ黄身が出てきた時。
急いで乗った電車のドアに指を挟まれたまま一駅間乗り、鬱血する指の痛さと不安と、
とてつもない恥ずかしさを抱えるわたしを、心ない女子高生たちに大爆笑された時。
夜に犬の散歩中、「ついにお化けを見てしまった!」と思ったら曲り角からスーっと自転車に乗った、白い服を着たただのおばさんだった時。
そういう些細な日常の出来事で、うれしかったり、恥ずかしかったり、怖かったり。
ちょっと一人で受け止めるにはもったいないことや、手に余ることを、私はすぐに仲の良い人や家族に話したくなります。
何かを表現するというのは、その「話したくなる」のとよく似ています。
でも、美味しいものを見つけたら、実際にそれを食べさせたいし、
綺麗な景色だったら、同じそれを見て欲しい。
話して伝わることだったら、おもしろおかしく(何割増かにして)話して伝えたい。
でも当然、体験させられないことや話してもうまく伝えられない類のものもあります。
自分の解釈を織りまぜた作品を介した方がより面白く伝わる、っていうのがある訳です。
しかもこの「より面白く」というのが重要だと思っています。
今のところ、そんな理由で作品を作っていて、そんなものを見つけるために暮らしています。
完全に自給自足をするような作り方
ガラスという素材のリサイクルのサイクルの短さ/身近さが面白いなぁと思って前回の文を書いた訳ですが、
実はわたしの知る範囲のガラスのリサイクルの現状は、新しい原料を7、リサイクルが3、といった具合で融かしています。
作品を作るための無色透明な " 綺麗 "なガラスを作ろうとすると、これくらいの比率がベストだそう。
多くの素材が様々に形を変える事でリサイクルされている中、熱を加えることで、また同じ状態に戻ること
のできるガラスや金属は、単純明快な面白さがありあます。
でも現状のリサイクルでは、「スーパー行かないと生活できないけど、家庭菜園ならやっています」という感じ。
これではせっかくの面白さが半減です。
これじゃぁなんか中途半端だよなぁ。
と、そんなことをここ最近考えながら、いろいろと勝手に想像していくと、あることを思いつきました。
「完成した自分の作品をまた融かすことで、作品をつくり続けて行く」ということが可能なのでは!?
もちろん厳密に言えば、何度もガラスを融かすことにより中の成分はどんどんと変化し、不純物も増え、
ガラスの量も増えることは絶対に無いので前作より大きいものなどは作れません。
それに、次の作品の材料になってしまうため、いつまでも「作品」は残りません。
リサイクルされ続けた結果としての、「あるガラスの状態」が残るだけで、それすらまだ「途中」の段階にあるわけです。
「作品」をつくることを目的とするならば、完全に矛盾しています。
でも、そのプロセスの間に、また、その先にいったい何があるのか、気になります。
リサイクルできる素材が、リサイクルされ続けることで、どうなっていくんだろう。
素材の限界のドキュメンタリー。
取り組めば、かなりの長期プロジェクトになりそうです。
ちゃんと「作品」をつくらなきゃいけないのに、どうもこんなことばかり思いつきます。
リサイクル サイクル
蛍光灯や電球、瓶などのガラス製品と同じく、美術や工芸などのものづくりのフィールドで使われているガラスも、リサイクルをしています。
ガラスは人工素材。
ガラスという素材自体を作るのにも、また融かすのにも多くのエネルギーを使います。
そんな中、わずかに(本当にわずかに)救われるのは、ガラスがリサイクルできる素材だということです。
わたしは自分の技量をほぼ考えずに作品のアイデアを出してしまうせいか、ひとつの作品を完成させるまでに、
本当にたくさんの失敗を生み出します。それはそれで、なかなか絶望的です。
だけどそんな「作品になりかけたけどなれなかったもの」を、高温の坩堝の中に戻すと、融けて形が無くなり、
また、「ただの素材」に戻ります。
次の日には、再度作品になる可能性を持った状態になってしまうわけです。
これはとても面白いことです。
複数の人が共に制作をするガラス工房であれば、今日最高に良くできた自分の作品が、
もしかしたら昨日の誰かの作品になりそこねたガラスだったかもしれないし、その逆だってあるわけです。
こんな素材の共有の仕方はやっぱり面白い。
そう考えると、わたしの失敗作で作品を作った人、かなりいるんじゃないかな、なんて思います。
自給自足の村みたい。急に他人と思えなくなります。
素材の使い方
作品制作にガラスという素材を使っているせいか、日常生活で使われているガラス、というのも気になります。
ガラスというのは、透明で中身が見え、経年変化が少なく、例外はあるものの耐薬品性に優れ、無味無臭。
そういう特徴からか、長期間の保存容器として幅広く使われています。
薬品のような危険なものから、ワインやジャムのような食品まで。
自分の息がかたちになる面白さと同時に、そういうガラスの「使われ方」を作品の要素に持ち込めないかと思い制作した、
「私の一息」という作品を、今回、spiralショウケースでの個展で発表しました。
タイトル通り、自分の一息分の息でふくらましたガラスの作品で、風船の形と、ビニル袋の形をしています。
この作品は、自分の息が直接かたちを作ることのできる吹きガラスという技法を使い、また、自分の息を保存する「容器」として
ガラス素材を用いることで、「自分の息」が、いわゆる「美術作品」と呼ばれるものになる可能性があるのでは、
という何とも図々しい試みです。
個展期間中、自分の一息が封じ込められた作品を眺め、「私の息は、これから先私が死んでも、ずっとこの中に保存されていくのかぁ」などと、
なんだか不思議な気持ちになっていましたが、その後、そんな気持ちを簡単に払拭するできごとが起きました。
ガラスは割れ物であるということ。
そんな当たり前のことに気付かされました。
長期間保存できるけど、割れたらおしまい。
ガラスの保存容器は、ものすごいジレンマを抱えた、素材の使い方です。
ホームセンター
一番良く行くお店は、ホームセンター。
家の近くには、同じくらいの距離に2つのホームセンターがあります。
引っ越して半年が経ち、ようやく「これはこっちの方が安い」「あれはあっちにしか売ってない」という具合に、
2つのホームセンターの得意分野みたいなものが分かって来ました。
実際は何に使うかいまいち分からない部品などを眺め、あの部分に使える!とか、ここをちょっと加工して...とか、いろいろと考えます。
展示などを控えるとなおさらで、それはとても楽しい行程でもあるし、うまいこと行ったときは、嬉しいものです。
でもそれって、ホームセンターに並ぶ品物が作品の細部の完成度にかなり影響してしまっている、ということです。
なんだか怖い気がします。
もしウルトラミラクルホームセンター(とにかく品揃え豊富で、かゆい所に手が届く的なホームセンター ※架空です)
の近くに住んだら、私の作品の完成度もウルトラミラクル上がるのでしょうか。
そう言えば昨日、ホームセンターでシリコンのチューブのカットを頼んだ際、
応対してくれた店員さんに「ホームセンター好きですよね?」と突然言われてとても驚きました。
唐突かつ素直な言葉に「は、はい。」としか答えられませんでした。
恥ずかしさを感じながらも、今日も行くことになりそうです。
シンパシーを(勝手に)感じること
最近、お笑い芸人の人が気になっています。
特に誰というのではなく、コンスタントにネタやコントを発表し続けている人たち全般が気になります。
気になるというより、勝手にシンパシーを感じています。
近い感覚で、ものを作っているように思うのです。
(芸人の方もアーティストと呼ばれる人にもそれぞれいろんな考え方や作り方があるので、一概には言えませんが。)
お笑いの世界の「うける」か「うけない」という、明確だけど本当につかみ所の無いその基準。
制作のスタート地点はとても個人的なところだけど、最後は「他者」が自分以上の割合で存在しているように思います。
そしてその先には見た人が笑う、という気持ちのよい共感があって、なんだかうらやましいなとも思います。
全く同じことをやり続けたらつまらないし、
過去の偉人から学ぶべきことや、革新的な方法論を模索したり。
そして売れない時代はバイトをしながら、ネタやコントを作る。
あ、気付けば下世話な面でも、感情移入してしまっています。
ある絵
どうしても忘れられない絵があります。
それは中学3年生の修学旅行で訪れた、龍安寺の石庭を描いた絵。
当時、美術の授業の課題で提出したものです。
そこから私の美術への目覚めが...と言いたいのですが、違います。
その絵は私ではなく、兄が描いた絵だったのです。
しかも、私と同じように中学3年生の美術の授業で描いたもの。
兄はその頃から画塾に通っていてとても絵が上手だったので、
私は「ちょうどいいや」と、家にあったその絵をそっくりそのまま提出したのです。
もちろん誰にも内緒で。
今思うと、まったく信じ難い行動で、自分の人間性を疑ってしまいます。
盗作というより、もはや窃盗。
今は一丁前にも「作品」なんてものを作っていますが、当時の私は、美術の授業が1番嫌いだったし、
正直面白いと思ったことがありませんでした。
とにかく、自分の描いたもの、作ったものを人に見られるのが恥ずかしくてたまらなかった。
その絵はなぜかちゃんと今も家の廊下に飾ってあって、水戸黄門の印籠ばりに私の目に入ってきます。
その度に、人生ってどう転がるかわからないなぁ、と思います。